素面で読むベルギー文学入門 フランダース篇

相次いだフランダース文学に関する出版物

びあトモの「素面で読むベルギー文学入門」は2012年に執筆したもので、そこで紹介してあるベルギー文学作品の翻訳も、基本的にはその時点で入手可能なものに限定していました。そして、その特集内容は、そこにも書いたようにオランダ語を読めるものがいなかったので、著しくフランス語によるベルギー文学に偏ったものでした。
日本でベルギー文学を研究しようとすると仏文という枠組みでやるしかないと、その記事の中で自ら指摘したことを、正にそのまま強化するものでしかありませんでした。

ところが、その後、オランダ語によるベルギー文学の日本紹介にとって画期的ともいえる出版が立て続けにありましたので、稿を改めて紹介しようと思います。

ディミトリ・フェルフルスト『残念な日々』

まずは、日本の出版史上おそらく初めてオランダ語から翻訳されたベルギー文学作品、ディミトリ・フェルフルストの『残念な日々』です。
2006年に出版された『残念な日々』は作者の子ども時代に取材した自伝的連作短編集ですが、そのタイトル通り、極めつけに「残念な」人びとによる「残念な」物語です。そのあまりもの「残念さ」ぶりにベルギーとオランダではベストセラーとなり、いくつかの文学賞も受賞、映画化もされカンヌにも出品されたほどです。

フランダースの片田舎で繰り広げられる残念な日々、これを日本語に訳すに当たって本書の翻訳家は、方言で書かれた会話文を翻訳の決まり事(?)である謎の訛りにはせずに、訳者の母語である神戸変種(いわゆる関西弁)にするという実験を試みています。
翻訳の決まり事である謎の訛りというのは、別に本当にそういう規則があるわけではないのですが、田舎の人が自分のことを「あっし」と呼んだり、語尾には「〜なんでさあ」をつけたりと、いったいどんな人物像を想定しているのか理解不能な言葉遣いで訳されることが多いという現象のことです。
さて、神戸の変種に訳すという試みは成功したのかどうか、少なくともこの原稿を書いている筆者には効果的で、標準変種(いわゆる共通語)で話す気取った人たちとの対比も鮮やかです。ただ、それは筆者自身がまた神戸出身であるからなのかもしれませんが。

それはさておき、登場人物がことごとく飲んだくれという、ビール好きのみなさんこそぜひ読んでいただきたい『残念な日々』、中でもお勧めなのが第三話の『ツール・ド・フランス』です。
ツール・ド・フランス?自転車競技?そんな健康的なお話、我々ビール飲みには関係ないなどと言ってしまいそうになりますが、これはただのツール・ド・フランスではありません。これは酒飲みによる酒飲みのための空想の、いや、妄想のツール・ド・フランスなのです。
抱腹絶倒の『ツール・ド・フランス』、そのオチを正しく理解できるのはビール好きを置いて他にはいません。ベルギービール好きなら、このオチのためだけに本書を買うべきと言っても過言ではありません。 ただし、随所で吹き出しそうになるので、電車の中や静かなカフェなどでは読まない方がいいかもしれません。

『「ベルギー」とは何か?―アイデンティティの多層性」

2冊目として紹介するのは文学作品ではありませんが、現在のベルギーの置かれた文化的状況を多方面から紹介した論文集『「ベルギー」とは何か?―アイデンティティの多層性』です。
言語・文学・舞台芸術・歴史など、各方面の専門家がベルギーの諸問題を論じた本書は、それ自体が刺激的な1冊であるといえますが、なによりも「『ベルギー』とはなにか」というその問題設定自体がプロブレマティックで、しかも、「ベルギー」をカッコに入れてしまうという挑発的な論集なのです。
ベルギーとはなにか?この問いのもつ意義は、「日本とはなにか」や「フランスとはなにか」という問いとは、一見同じように思えて、実はまるで異なる性質を持っています。日本やフランスのような多様性を捨象した中央集権国家では、この問いは強い求心力を持った同一性の要求、あるいは拘束力として機能し、好むと好まざるとにかかわらず、そして、友好的に対処するか強権的にいくかも別として、外部との強い緊張関係を生じさせます。
しかし、ベルギーにおいてこの問いかけは必然的に内的緊張へと発展してゆくもの、あるいは、解体へとつながる可能性のあるものなのです。そのような内的対立関係を取り上げた論文が本書にも収められています。

政治システム・社会制度という側面から論じた「ベルギー連邦制の不安定化」、連邦国家の主要な担い手であるフランデレンの文化の問題を取り扱った「フランデレンの文化行政と一九八〇年代の『フランデレンの波』現象」、もうひとつの主要な枠組みフランス語共同体と他のフランス語圏との関係を問うた「OIF(フランコフォニー国際機関)とベルギー」、連邦国家の中でさえ公式の地位が与えられなかった更なるマイノリティ「ワロン語の標準化」など、日本ではほとんど知られることのなかったベルギーの姿がそこにあります。

文学関係では、ヒューホ・クラウス、カーレル・ヴァン・デ・ウーステイネ、アンリ・ミショーをそれぞれ扱った論文が収められています。

『フランダースの声 現代ベルギー小説アンソロジー』

3冊目は短編アンソロジー『フランダースの声 現代ベルギー小説アンソロジー』です。
現代フランダース文学を代表する作家としてヒューゴ・クラウスを挙げることができます。彼は2008年にベルギーでは合法化されている安楽死を選択したことでも話題となりましたが、あと何年か生きていればノーベル文学賞を取っていたに違いないと言われるほどの重要な作家です。
ところが、なぜかクラウスの作品はほぼ邦訳されてきませんでした。かろうじて処女長編である『かも猟』がフランス語からの重訳ででているだけでしたが、それも今では絶版となっています。
そんなクラウスを筆頭に、個性豊かな現代フランダースの作家5人の短編アンソロジーが本書です。

重層的で象徴的なクラウスの短編『茂みの中の家』は当然必読ですが、筆者のお勧めは、スキップに取り憑かれた人たちがスキップ故に親密になり、スキップ故に反目し合うようになるという、滑稽だが微笑ましいストーリーの、アンネリース・ヴェルベーケ作『グループでスキップ』と、戦争の狂気が生み出した小さな、しかし、圧倒的な悲劇を描いた、アンネ・プロヴォースト作『一発の銃弾』です。
他に、トム・ラノワ作『完全殺人(スリラー)』、クリストフ・ヴェーケマン作『正真正銘の男』が収録されており、いずれも編訳者が選りすぐったであろう、その審美眼が光る粒揃いの短編集で、現代フランダース文学の豊かさが感じられる1冊となっています。

本書は公益財団法人フランダースセンターが開講したフランダース文学翻訳セミナーの成果を元に企画されました。そのような経緯から、一般の流通にはのっておらず書店などで購入することはできませんが、その代わりに都道府県立図書館には納本されているとのことなので、ぜひ図書館で手にとってみてください。また、市町村の公立図書館や大学等の付属図書館にもリクエストすれば入れてもらえるということなので、興味はあるけど県立図書館は遠いという方はお近くの図書館に問い合わせてください。

さらなるフランダース文学の紹介に向けて

他にも、青少年向けの作品としてヤン・デ・レーブの『15の夏を抱きしめて』も翻訳刊行されるなど、この数年、かつてないようなフランダース文学の出版ブームともいえる状況となっています。願わくはこれが一過性の現象にとどまらず、さらなる活発な翻訳出版へとつながっていって欲しいと思います。
筆者個人としては日本の海外文学紹介における極端な大国主義への異議申し立てとしても注目していきたいと思っていますが、そんな大人の事情(?)はともかく、単純に紹介されるに値する作品がたくさんあります。そして、いつかはヒューホ・クラウスの代表作ともいえる大作『ベルギーの憂鬱』を日本語で読みたいものです。

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