ビールの歴史 1.1.2.1. 最初期のビールの記録 (1)
最古のビールの記録
世界最古のビールの記録としてモニュマン・ブルーの名前が挙げられることもありますが、補遺にも書いたように、それは一種の民間伝承、というりよりは、インターネットジョークの類でしかありません。
では、実際に最初期のビールの記録というはどのようなものだったのでしょうか?
ビールが文字として記録に残されるようになるは、実は文字が生み出された当初からなのです。これは言い換えるなら、ビールをはじめとした食料などの記録・管理という目的のために文字が作られたということです。
粘土板に残された記録
© Trustees of the British Museum (所蔵番号 140855)
© R.M.N. (所蔵番号 AO29560)
ひとつ、ここに大英博物館の所蔵品の例を挙げてみましょう(画像上)。
これはB.C.3100-B.C.3000頃に作られたと思われる楔形文字を刻んだ粘土板で、そこには労働者に支払うべきビールの配給量が書かれています。
いちばん上の右から左へ、次の行も右から左へと読んでいきます。この粘土板には3行あって、各行がさらに4列に区切られているのが分かります。
ここでは便宜的に、各マスを順に1-1から3-4と呼ぶこととしましょう。
この粘土板で使われている文字は、正確には、一般に楔形文字として知られているものよりも古い、ウルク古拙文字という表意記号です。とはいえ、数字などの抽象概念を表す文字もあるので、完全な絵文字記号の段階からは一歩進んだ状態の、ごくごく最初期の文字と言えるものです。
ビールは1-4と、2-2に縦に重ねて2つ書かれている、上辺に突起のある逆三角形をした文字によって表されています。
これはビールの壺状の容器を象った文字で、上にはみ出た突起の部分は容器の口を表し、逆三角形の中に刻まれた横線は中に入っている液体を示しているものと考えられています。
また、多くのマスに刻まれている、丸い穴と爪跡のような半円は数字を(ここでは配給量を)、少し欠けてしまっていますが、4-4の傾けた杯の横、最後の最後に書かれている人の顔が「配給」を意味しています。
もう少しはっきりと「配給」の文字が残っている粘土板の例をルーブル美術館の所蔵品からあげておきましょう(画像下)。左下に同様の人の形が刻まれているのがわかります。
こちらの方が人が飲料を飲んでいる記号だということがはっきりと見て取れるでしょう。
なお、大英博物館の粘土板は『100のモノが語る世界の歴史』という大英博物館館長のマクレガーの著書でも取り上げられており、歴史の証人としては第一級の価値を持っています。Further Readingに書誌情報をあげておきますので、興味のある方は是非手に取ってみてください。
この書籍を基にした「100のモノが語る世界の歴史 大英博物館展」という展覧会が2015年に開催されており、この粘土板も日本に来ていますので(2016/1/11まで神戸市立博物館にて)、実物を目にするまたとない機会です。
文字が考案された背景
さて、私たちの使っている日本語や、あるいは、比較的馴染みのある欧米の言語というのは、本来は別の言語のために作られた文字体系を借用して使っており、文字が現れる(=記録が残っている)と同時に比較的高度な文章が記録されることになります。
実際にはそうでないものも多いのですが、我々が最古の文字で残された記録というものを思い浮かべるとき、いきなり神話とか経典とかいった、文学作品や宗教文書のイメージを抱くのはそのためなのです。
その一方で、楔形文字にもギルガメシュ神話のような叙事詩が残されており(その原型とも言えるさらに古い時代のものもあります)、ますます上記のような最古の文字による記録のイメージを強めていますが、文学や宗教文書といった高度な文字による記録に到達する前に、極めて事務的な記録、収穫量や配給量などを記した粘土板が実は膨大に存在しています。
麦がどこの耕作地でどれだけ採れて、労働者には報酬としてビールをどれだけ支給したのか、文字というのは、むしろ、そのような行政上の記録のために作り出されたのであり、少々大げさな物言いですが、ビールが文字を生み出したとも言われる所以なのです。
photo credit: Detail - Cuneiform Inscription via photopin (license)
このことは裏返して言うならば、初めて文字による記録を残した社会では、すでに、狩猟採取生活はおろか、自分の食べる分だけをかろうじて生産する自給自足の段階すらも脱して、人類は食料を生産する労働者とそれを記録・分配・管理する官僚(すなわち、支配階層)という、分業・階級社会に到達していたということです。
それぞれの人が各人の必要とする分だけを生産している段階では起こりえない階級社会というのは、まさに食料の余剰生産が生み出したものなのです。
さらには、ビールが初めて記録に残された時、すでにビールは社会で生産されており、現在の個人の楽しみとして享楽的に飲まれるビールのあり方から想像されるような、私的余剰生産物などではなかったのです。
最古のビールの記録が残されたとき、人類は私たちがビールの起源として想像しているような、たまたま、こぼれた麦が水に浸かって発酵して、飲んだ者に不思議な作用を及ぼす(=酔わせる)液体を手に入れた偶然の発見からは(そのようなことが実際に起きたとしての話ですが)、はるかに遠く隔たったところにまで到達していました。
ビールは歴史よりも古いと言われるゆえんです。