ビールの歴史 0. Introduction : ビールの発明家ガンブリヌス (1)

ビールを発明したのは誰か?

Beer Gambrinus

ビールはいつごろ誰によって発明されたのでしょうか。ビールの歴史について語るに当たって、まずはこの問いに答えることから始めるとしましょう。
え?そんなこと分かるの?と首をかしげる方もいることでしょう。しかし、ビールの起源を探る問いは意外にも簡単にその答えが見つかります。
ビールを発明したのはビールの王様とも呼ばれているガンブリヌス Gambrinus という人物で、そこからビールの守護聖人と崇められることもあります。彼の名を冠したビアバーは数知れず存在し、ガンブリヌスという名前のビールもあります。さらには、さすがビール王国といったところでしょうか、チェコのサッカーチームにはガンブリヌスが存在しているのです(本当はビールのガンブリヌスを造っているメーカーがチームのスポンサーだからです)。

それでは、ビールの王様ガンブリヌスとはどのような人だったのでしょうか。
ここでは1868年に刊行されたシャルル・ドゥラン(Charles Deulin)による『ビール飲みの逸話集』(Contes d’Un Buveur de Bière)に基づいて、ガンブリヌスの生涯をざっと追ってみましょう。

Gambrinus le roi de la bière(ビール王ガンブリヌス)

フランス北部、今日のベルギーとの国境近くに位置するフレーヌ=シュール=エスコーという村でガラス工をしていたガンブリヌス、あるいはカンブリヌスと呼ばれることもありますが、彼はガラス吹き職人の娘フランドリーヌに恋をしました。
しかし、ガンブリヌスはガラス職人の家系ではなく、ガラス吹き職人の道を極めることを望むべくもありませんでした。というのも、当時、ガラス吹きというのは名門の家業として代々受け継がれてゆくものだったからです。
そのため、ガンブリヌスが勇気を出して胸の内を打ち明けても、誇り高きフランドリーヌはただのガラス工ごときには目もくれませんでした。

すっかり失望したガンブリヌスは商売道具を捨てて工房を飛び出してしまいます。そして、立派な音楽家はガラス吹きの名門に匹敵するに違いないと考えて、フランドリーヌを振り向かせるべく、コンデの律修司祭ジョスカンにヴィオラを師事します。音楽の才に恵まれていたガンブリヌスはたちまちにしてヴィオラを習得しました。
そして、凱旋の日、フレーヌのステージの上で(といっても、樽の上なんですが)、ガンブリヌスはヴィオラを弾き始めした。その演奏は次第に熱を帯び、最初のうちはあの元ガラス工がとガンブリヌスのことを嘲笑してい村人たちも、やがて彼の演奏に合わせて踊り出しました。
すべてがうまく進んでいたのです、フランドリーヌが現れるまでは。
ところが、ガンブリヌスは彼女の姿を見た途端に我を忘れて心ここにあらず、演奏の方はメチャクチャになってしまい、音楽に合わせて踊っていた村人は怒り狂って、ガンブリヌスを樽の上から引きずり下ろしヴィオラをたたき割ってしまいます。
その上、騒ぎを聞きつけた判事ジョコが、両目の周りに痣をこしらえたガンブリヌスの方を騒乱の咎で投獄してしまいました。

一月の服役の後、牢から出ることを許されたガンブリヌスは、しかし、不名誉の余りにこれ以上は生きてゆけないと思い、近くにあるオドメの森で首を吊ろうとしましたが、縄に首を通そうという正にそのとき、目の前に悪魔のベルゼブブが現れ、自殺者の魂は地獄行きだからお前の魂をいただきに来たと告げました。
それでは、首を吊らなかったらどうなるのだと聞くと、生き地獄が待っているだけだと言います。どちらにしても堪えがたいことなので、ガンブリヌスは悪魔と取引をして30年後に魂を渡す代わりに、それまではフランドリーヌのことを忘れさせてくれと頼みます。

激しい情熱の穴を埋めるのはもっと激しい情熱だけと、悪魔のすすめに従ってガンブリヌスは賭け事に興じます。
悪魔との取引のおかげで何をやっても負けることのないガンブリヌスは、最初の内こそ自分のとてつもない強運に興奮しますが、延々と続く連勝にその熱も冷め、最後には、勝つと決まっている勝負に退屈してしまいます。すっからかんになってしまえとばかりに全財産を賭けてみても負けられないのです。
しかし、不幸なガンブリヌスはこんなに裕福になったのだからフランドリーヌも考え直してくれるに違いないと思い、財産を彼女の前に積み上げてプロポーズしました。ところが、現代女性ではとても考えられないことですが、フランドリーヌは「私、名家の人としか結婚しません」と断ってしまいます。

ガンブリヌスは絶望の余り、ふたたび逢魔が時にオドメの森に向かって首を吊ろうとしますが、そこに悪魔が再び現れて、勝ち方だけではなく、すり方も教えておけばよかったですかね、ワインを飲めば記憶も彼女のことも苦しみも全部すっからかんになれますよと教えてくれました。ガンブリヌスは巨大な酒蔵を建ててワインで埋め尽くして一日中ワインを飲み続けましたが、愛の炎は燃えさかるばかり、 ついにはフランドリーヌが他の男と踊っている姿が幾千と見えるようになってしまいました。
ワインをやめて、シードル、ジン、コニャック、ウィスキー、キルシュと色々な酒を試しましたが、飲めば飲むほど苦しくなるばかりです。

ホップ

ある夜、とうとう堪えきれなくなったガンブリヌスは三度オドメの森に向かいますが、またもや悪魔が現れて今度こそ本当に助けてさしあげましょうと言います。
そうして、悪魔に見せられたのが、ずらりと並んだ添え木に巻きついて、緑の毬花がよい香りを放っている植物、つまり、ホップだったのです。ホップの花が恋の病を治してくれると言います。ホップ畑の向こうにはレンガの建物があり、その中には巨大な桶、かまど、大樽、そして、酸っぱい香りを放つブロンド色の液体で満たされた大釜がありました。ビールの醸造所です。

「大麦とホップとでフランドルのワイン、つまり、ビールを作るのです。大麦を臼で挽いたら桶の中で水に浸して、取れた麦汁を大釜に入れてホップを混ぜる。ホップの花が麦汁に味わいと香りを与えてくれますよ。この神聖な植物のおかげで、ビールもワインのように樽の中で熟成するのです。そうして、ビールはトパーズのように黄金色か、瑪瑙のように褐色に輝きます。さあ、飲んだ飲んだ」

一口目は苦くて思わず顔をしかめたガンブリヌスですが、飲み続けてゆく内に少しずつ心が落ち着いてゆくのでした。さらに、ヴィオラを壊したフレーヌの村人に復讐するために、カリヨンという新しい楽器も教えてもらったガンブリヌスは、
「悪魔よ、ありがとう。今度こそ本当におさらばだ」
「いえいえ、またお会いしましょう。今度は三十年後に」
そう答えると、ホップ畑も醸造所の建物も、そしてベルゼブブ自身もみんな消えてしまいました。

悪魔の教えの通りにビールとカリヨンを作ったガンブリヌスは、ある日曜日、フレーヌの広場にテーブルを並べてビールで埋め尽くし、 晩課の祈りを終えて教会から出てきた村人たちを、一杯やらないかと誘いました。しかし、一口飲んで村人たちはこんな苦い飲み物はいやだと断ります。
「飲まないんだな。では、踊れ」とガンブリヌスが魔法のカリヨンを演奏すると、男も女も老いも若きも踊り始めました。 村長も警察署長も、太ったのも痩せてるのも、ノッポもチビも、犬までが後ろ脚で立って踊ります。 通りがかった荷馬車も馭者が踊り馬が踊り、馬車までが踊ります。カリヨンの音の聞こえるところ、どこでも皆が踊ります。家の中では年寄りも寝たきりの病人も、家畜の馬も牛も鶏も、テーブルにイスにタンスに、家自体も。
一時間ほどは踊り続けたでしょうか、音楽を止めてくれと村人たちは言いますが、ガンブリヌスはさらに続けました。そして、最後には村人たちが「飲み物をくれ」と叫びました。
こうして、村人たちはガンブリヌスの作ったビールを飲んで、ビールがとてもおいしいことに気づきます。3杯か4杯ほど飲むと、今度は村人たちから音楽をと頼み、その日は夜遅くまで踊り明かしました。

翌日には噂が広まり、ビールを飲んでカリヨンに合わせて踊るために、各地からフレーヌに人々が集まってきました。
やがて、たくさんのカリヨンと酒場がフレーヌをはじめ、コンデ、ヴァランシエンヌ、リーユ、さらには、ブリュージュ、ルーヴァン、ブリュッセルへと広まってゆきました。ビールは黄金色の波となってフランドル、オランダ、ドイツ、イングランド、スコットランドを飲み込んでいったのです。

ビールとカリヨンを作り出した功績でガンブリヌスはブラバン公、フランドル伯爵、フレーヌの領主に王様から任命されましたが、彼自身は「ビールの王様」とみんなに呼ばれるのがいちばんのお気に入りでした。
さて、フランドリーヌの件はどうなったかと言いますと、半年ほども飲み続けるうちに恋の病も治まりはじめ、ついにはすっかり忘れることが出来ました。新しいフレーヌの領主が自分の手を求めに来ないことに気づいたフランドリーヌは、今度は自らガンブリヌスのところに赴きますが、それがかつての思い人であることにさえ気づかずにビールを彼女に差し出すガンブリヌスでした。

ガンブリヌスの幸せな日々は30年ほど続き、ついに悪魔との約束の日がやって来ました。かつてガンブリヌスを牢に放り込んだ判事ジョコが悪魔の手下として、彼の魂を取りに遣わされてきたのです。 それに気づいたガンブリヌスはカリヨンを奏でてジョコを踊らせ、息が切れて喉の渇きを訴えるジョコにビールを飲ませます。
元々、飲むのが大好きなジョコだったので、杯を重ねるうちにすっかり酔いしれてしまい、自ら村人の先頭に立って踊り始め、そのご一行は村の外へと踊りながら出て行ってしまいました。やがて、疲れ果てたジョコは道ばたに倒れ込むように寝入ってしまい、そこから三日三晩眠り続けたのでした。
目が覚めたとき、ジョコは恥ずかしさの余り、フレーヌに再びゆくことも地獄に帰ることも出来ず、物乞いが差し出した空の財布の中に身を隠してしまいます。
うまく隠れ果せたジョコは今でもそこにいるそうで、ここから一文無しのことを「財布に悪魔が住んでいる」という慣用句が生まれました。

そのまま、ガンブリヌスは百歳近くまでカリヨンを演奏し、ビールを造り続けました。
ガンブリヌスが亡くなった日、悪魔は彼の魂を今度こそちょうだいすべくやって来ましたが、そこにはビア樽しか残っていなかったということです。
果たして、みんなビールを飲み過ぎたせいなのか、はたまた、魂をもらい損ねた悪魔の腹いせなのか、ビールの王様のことは死後たちまちにして忘れ去られてしまいました。

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