ビールの歴史 1.1.2.1. 最初期のビールの記録 (2)
トークン 文字の始原
それでは、上に挙げたような粘土板の記録が最古のビールの記録なのかというと、実はもう一段階古い層の記録が残されているのです。
それは文字の一つ前の段階、文字が生み出される前に同様の行政的な記録のために使われていたトークンというもので、文字の始祖とも言われています。
© R.M.N./G. Biot (所蔵番号 Sb1927)
それでは、これもまたルーブル美術館の古代オリエントコレクションから、トークンの画像を見てみましょう(所蔵番号 Sb1927)。
現在のイランのスーサから発掘された紀元前34〜33世紀頃のもので、右側に並べられた3種類7個の小さな粘土の小塊がトークンです。
古代メソポタミアで使われていたトークンは1つが2〜3cmほどの大きさで、手前の3つの三角錐は穀物の収穫単位を、先端が欠けていますが右端の大きな三角錐はより大きな収穫単位を、奥の3つの円盤状のトークンは動物の群れをそれぞれ表していると考えられています。
トークンとはこのように、一般的に何らかの単位(貨幣単位であることが多い)を表す小片のことを指します。
また、左にある大きな球状の物体は中が空洞になっていて、そこにトークンを入れて保存するための容器で、大きさは直径10cm前後、ブッラ(bulla ラテン語でボール)と呼ばれてます。
トークンもブッラも当時そう呼ばれていたというわけではなく、後世の命名なのですが、どちらも広く様々なものを指し示す名前なので、分かりやすくするために counting tokens とか bulla envelope と呼ばれることもあります。
トークンには様々な形のものがあって、円盤や三角錐などの単純な形のもの(単純トークン)から始まって、牛や犬などの頭部を模した複合トークンへと発展していきます。古代メソポタミアにおいて最も重要であったであろう羊は単純トークンで表されている辺りに、このトークンが社会の要請に応じて少しずつ深化していったことがうかがえます。
そして、ビールを表すのが左図です(Denise Schmandt-Besserat (1992) Before Writing vol.1 p.144より転写)。図にすると魚の頭を下にして立てたようなものに見えますが、実際には、くびれがあって先の尖っている円柱状で、ビールを入れる容器の形を模したものです。
このトークン1つで決められた単位のビールを意味しており、例えば、5単位分のビールを醸造した場合、その記録としてトークンをブッラに5個入れておくという仕組みです。
トークンから楔形文字へ
恐らくは人類がはじめて手にしたであろう記録方法であるトークンとブッラですが、この記録方法には致命的な欠点があります。
それはブッラを壊さないと中身を確認できないということで、ブッラの数が増えてくると、どれがどれだか分からなくなってしまうのです。
そこでブッラの表面にトークンを収める数の分だけ押しつけて跡を残し、トークンの内容が外から分かるようにしていったのです。外側に跡を残すのが慣例となると、実際にトークンを内部に入れる必要もなければ、ブッラのような球体である必然性もなくなります。
結果、平らな粘土板にトークンを押しつけるだけとなり、さらに一歩進んで、トークンで型押しするのではなく、粘土板に棒状のもので刻みこむだけになる、これが文字の原初の状態ではないかと考えられています。
© Los Angeles County Museum of Art
年代としてはウルク古拙文字が紀元前35世紀〜32世紀頃の層から発見されはじめるので、トークンはそれよりも古い時代のものですし、文字としてある程度完成した楔形文字が見つかるのは、さらに時代を下って紀元前25世紀頃の史料からとなります。今から遡ること5500〜4500年前の話です。そんな大昔の文字の黎明期にビールはすでにその記録の対象として存在していたわけです。
さて、トークンや古拙文字では抽象的な概念を表現することが困難であり、基本的には行政の記録しか残されていませんが、完全な楔形文字になると様々な文章が残されるようになり、ビールへの言及の数も飛躍的に増えます(ビールに言及する機会が増えたのではなく、発掘された史料の数が増えたから)。
少し後の時代の話になりますが、紀元前21世紀頃のウル第三王朝では、発掘された粘土板の数が10万点を超えていると考えられています(個人蔵のものもあり、正確な数は不明)。
それだけ多くの史料があれば、この時代のビールのこともある程度は分かっているのだろうと期待するところですが、実は、この時代でも多くの文書は官僚による記録であって(会計簿というのがイメージとしていちばん近いかも知れません)、具体的な醸造の仕方や品質についての言及に乏しいこと、また、使用された原材料の記録は残っているものの、高度に標準化された計量方法が採用されていて、具体的なビールや醸造の様子をうかがい知ることは困難なのです。
For further reading
100のモノが語る世界の歴史〈1〉文明の誕生 (筑摩選書), ニール・マクレガー, 2012, 筑摩書房
およそ200万年前から現代に至るまで、大英博物館の所蔵品から選ばれた100のモノを子細に見てゆくことで、そのモノが作られ使われた時代背景を探り、人類の歩みを振り返ります。例えば、ロゼッタストーンのような誰もがその存在を知る有名な遺物だけではなく、現地に行っても短時間の見学では見落としてしまいそうな小さなモノなども取り上げ、様々な地域の多種多様な文明への眼差しが感じられる1冊です。
著者のニール・マクレガーは現在の大英博物館館長。The Burlington Magazineの編集者やナショナル・ギャラリーの館長などを歴任した美術畑の人で、彼が選んだ100点のモノにも、その経歴が反映されて美術品・工芸品が多く含まれます。
第1巻は紀元少し前までの最初の30点を扱い、本稿で紹介した粘土板も取り上げられています。なお、日本語版は3巻組みとなっていますが、原書の英語版は600頁ほどの1巻もので、ペーパーバック版でなら2000円程度で購入できるのでお勧めです。
文字はこうして生まれた, デニス・シュマント=ベッセラ, 2008, 岩波書店
本稿で文字の起源として紹介した話が依拠しているBefore Writing (1992)を一般向けに著者自身がリライトした1冊です。ものを数え記録するための道具であるトークンとブッラから、やがては文字が生み出されてゆく様子、そして、それが社会に、ひいては人類史に与えたインパクトを、簡約版だとはいえ200頁に渡って詳細に検証しています。
その後、いくつかの推論の不備が指摘されているシュマント=ベッセラの主著ですが、その説を根本から否定するほどの反論はまだ出されていないということです(小林 2015)。
References
—— Finkel, I. and Taylor, J., 2015, Cuneiform, British Museum Press
—— 小林登志子, 2015, 『文明の誕生 - メソポタミア、ローマ、そして日本へ (中公新書)』, 中央公論新社
—— MacGregor, Neil, 2012, A History of the World in 100 Objects, Penguin UK
—— Schmandt-Besserat, Denise, 1992, Before Writing: From Counting to Cuneiform, University of Texas Press