ビールの歴史 1.1.4.1. ギルガメシュ叙事詩
最古の文学作品
少し大げさな物言いだとはいえ、ビールが文明を生み出したとさえ言われるほどの古代メソポタミアの世界。そこで誕生した世界最古の文学作品『ギルガメッシュ叙事詩』にも、当然のごとくビールが登場してきます。
すでに何度も見てきた通り、それが一番古い層のビールの記録ではありませんが、叙事詩という公の記録の中に(古代において文学とは個人的な芸術作品ではなく、集合的な記録であったことを忘れてはなりません)、ビールが言及されているということは、すなわち、その社会の中で殊更に触れるだけの価値のある存在であったということなのです。
© Musée du Louvre / Thierry Olivier (所蔵番号 AO19861)
『ギルガメシュ叙事詩』のテキスト異同のうち、今日一般的に知られている形である、ニネヴェのアッシュールバニパルの図書館で発見された書板で、「標準版」と呼ばれるアッカド語で書かれたものが紀元前13〜11世紀頃に成立したと考えられていますが、これはそれよりも古いテキストから編纂されたもので、もっとも古いものは紀元前二千年紀のウルク第三王朝の時代にまで遡ります。 主人公であるギルガメシュは3分の2が神で3分の1が人間という、普通の人間を超えた英雄として描かれていますが、元はウルク第一王朝に実在したと考えられている王で(当時のシュメル語ではビルガメシュという)、その死後、神格化された伝説的な王様です。
標準版で考えてもすでに3000年以上も前の作品である『ギルガメッシュ叙事詩』ですが、我々もそこに現れるビールについての記述を一通り確認しておくことにしましょう。
以下では主に標準版に準拠しながら見ていくので、細かく言えば、ここでの考察は古代メソポタミアでも比較的後期の社会におけるビールのあり方ということになるでしょう。引用は参考文献にもあげた月本昭男訳『ギルガメシュ叙事詩』からになります。
また、画像はルーブル美術館にある『ライオンを飼い慣らす英雄』のレリーフですが、かつてはギルガメシュ像であると考えられていました(今日ではその同定には疑義が挟まれています)。
『ギルガメシュ叙事詩』におけるビールのもつ意味
暴君であったギルガメシュを諫めるため、女神アルルは粘土から作ったエンキドゥという野人を送り込みますが、野獣のように強く獰猛であったエンキドゥは、しかし、ギルガメシュの使わせた聖娼によって人間らしくなります。
娼婦に連れられて羊飼いの小屋にまでやって来たエンキドゥ、そんな彼の目の前に出されたのが、文明の象徴パンとビールでした。
彼ら(=羊飼いたち・筆者註)は彼(=エンキドゥ・筆者註)の前にパンを置いた。
彼らは彼の前にビールを置いた。
しかし、エンキドゥはパンを食べず、
目を細めて眺めているばかりであった。
(標準版 第2の書板 第1欄 ll.39-41)
シュメルの世界観はおおざっぱに言って、城壁に囲まれた都市国家(内)とそれを囲む耕作地、遊牧民の行き来する荒野(外)、そして、さらにその向こうにある「山」(冥界)という3重構造でした。とりあえずは山から荒野までおりてきたエンキドゥでしたが、まだ彼にはパンやビールは理解できないものだったのです。
ビールを眺めるばかりのエンキドゥは、その後どうなるのでしょうか。
標準版では、残念ながら、その後10行近くにわたって破損していたり欠損しているのですが、ペンシルバニア大学所蔵の古バビロニア時代の書板から、その箇所を容易に推測できます。
「彼はかつて野獣の乳を飲んでいたのだ。」
いまや、彼の前にパンが置かれた。
彼は目を細めて、眺めて見たが、
〔それが何か〕エンキドゥにはわからなかった。
パンを食べることも、
ビールを飲むことも、
彼は教えられていなかった。
そこで聖娼は口を開いて、エンキドゥに語った。
「エンキドゥ、パンをお食べ。
それが生きるしるしです。
ビールをお飲み。それが国のならわしです。」
エンキドゥは満ち足りるまでパンを食べた、
七壺までもビールを飲んだ。
彼は気持がなごみ、嬉しくなって、
心踊らせ、表情を輝かした。
水(?)で彼の毛深い身体を濡らし、
油を[身体に]塗った。
〔こうして〕彼は人間らしくなった。
(古バビロニア版<P> 第3欄 ll.1f-25)
© RMN / Hervé Lewandowski / Franck Raux (所蔵番号 A9034)
このようにパンを食べビールを飲むことが人間らしいということの1つであり、ここで人間になったエンキドゥは都市国家・文明の内側に入ってくることになります。
「山」の蛮人であったエンキドゥが「人」としてウルクにやってくるという、この話は酒も娼婦も自然にではなく、文明に属しているということの端的な表れなのです。
なお、都市と荒野の対立(=文明人 vs 遊牧民)については、他の文学作品にもビールの関係してくる話があるのですが、それは別稿で取り上げることにします。
さて、すっかり人間らしくなったエンキドゥは、ギルガメシュとも友になって、二人して様々な冒険を重ねてゆくのですが、その冒険故に神々から睨まれてしまい、死すべき運命を告げられることになります。
そうして、このような結末へと至る道に自らを導いたあの聖娼を呪います。野人の状態にあった自分をそこから引き離し、ひいては人為の行き着く果てへと自分を追いやった娼婦こそが呪われるべきだと思ったのです。
画像はレバノン杉の森の番人フンババで、フンババの殺害はギルガメシュとエンキドゥが神々の怒りをかってしまった1つの大きな要因でした。
彼(=エンキドゥ)は、心のたけ狩人を呪った後、
聖娼シャムハトをも呪いたいと思った。
(標準版 第7の書板 第3欄 ll.4-5)
シャマシュは彼の語る言葉を聞き、
即座に、天[から警]告を発した。
「なぜ、エンキドゥよ、聖娼シャムハトを呪うのか。
彼女は神にふさわしいパンをお前に食べさせ、
王にふさわしいクルンヌ・ビールを飲ませ、
立派な衣服を身に纏わせ、
立派な男ギルガメシュをお前の朋友とした。
(標準版 第7の書板 第3欄 ll.35-41)
ここでシャムハトがエンキドゥに飲ませたとされる「クルンヌ・ビール」というのは上等な種類のビールのことですが、シュメルのビールの多くの種類についてそうであるように、具体的にどのようなビールであったのかということは分かっていません。
文明対自然という二項対立が、人間の営為と神々からの恩寵という形で変奏されているのが見て取れますが、見逃してならないのは、すでにここでビールとパン、衣服、そして、人としての偉大さといった文明のもたらす利益が、自然からの逸脱を補償してくれるという世界観が語られていることです。
続いて、友を失ったギルガメシュの哀悼の意が語られます。
© Trustees of the British Museum (所蔵番号 K.3375)
牧夫、牧[人]があなたのために泣くように。
[彼はバ]ターと混合ビールをあなたの口に供えたのだった。
[………が]あなたのために泣くように。
[彼女は]あなたの下(?)にバターを置いたのだった。
…[……が]あなたのために泣くように。
[彼は]あなたに[ク]ルンヌ・ビールを口にさせたのだった。
(標準版 第8の書板 第1欄 ll.27-32)
このように『ギルガメシュ叙事詩』からは当時のビールがどのようなものであったのかを知る手がかりはほとんど得られず、ここでいう「混合ビール」というのも具体的にはどのようなビールだったのかは分かっていませんが、「クルンヌ・ビール」よりは質の落ちるものであったのでしょう。
エンキドゥの死を目の当たりにして、死への恐怖に囚われたギルガメシュは不死を得ようと旅に出ますが、人でありながら神々に列せられたウトナピシュティムには会えたものの、不死を得ることは能わず、代わりにと教えてもらった若返りの草も、帰路、蛇に盗まれてしまったというところで、『ギルガメシュ叙事詩』は幕を閉じます。
最後の画像は『ギルガメシュ叙事詩』のうち、ウトナビシュティムの語る洪水伝説が書かれている部分で、『100のモノが語る世界の歴史』でも取り上げられている、おそらくは世界で最も有名な粘土板でしょう。
標準版の一部をなすこの洪水伝説は、旧約聖書の有名なノアの箱舟の物語の原型であると考えられています。
For further reading
ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫), 矢島文夫(訳), 1998, 筑摩書房
文庫で手軽に読める『ギルガメシュ叙事詩』の翻訳です。元々は50年ほど前に訳されたものの文庫化で、改訂が入っているとはいえ、その後の研究の成果などは反映されておらず、少し古い翻訳なのですが、テクストクリティーク目的ならともかくも、叙事詩のストーリーを知るためであれば、今でも十分に価値ある原典訳です。ただし、ビールのことは「飲物」だとか「酒」と訳されています。
複数の書板の異同などに興味のある方は、参考文献に挙げてある月本訳を参照してください。
References
—— 小林登志子, 2015, 『文明の誕生 - メソポタミア、ローマ、そして日本へ (中公新書)』, 中央公論新社
—— MacGregor, Neil, 2012, A History of the World in 100 Objects, Penguin UK
—— Matthews, V. and Benjamin, D., 2007, Old Testament Parallels: Laws And Stories from the Ancient Near East, 3rd ed., Paulist Press
—— 月本昭男(訳), 1996, 『ギルガメシュ叙事詩』, 岩波書店