ビールの歴史 0. Introduction : ビールの発明家ガンブリヌス (2)

ヨーロッパでのガンブリヌス人気

以上がビールを発明したビールの王様ガンブリヌスの話です。悪魔と取引?魔法のカリヨン?いったい何の話?
そうです、ガンブリヌスというのは伝説上の人物なのです。十三世紀後半に生きたブラバント公ジャン一世がそのモデルではと考えられていますが、伝説故にこの話には細かいバリエーションがたくさんあり、彼が死んだときビア樽しか残っていなかったので、彼の墓も存在しないのだと締めくくるパターンもあります。
ヨーロッパでは陽気で人生を謳歌するビール好きとして人気の高い存在で、ほとんど聖人扱いされることもあるほどで、そこから最初に述べたように、ビールや数多のビアバーの名前として使われています。

ビールの名前としては最初に挙げたチェコのガンブリヌスの他に、ガンブリヌス伝説揺籃の地であるベルギーにもカンティヨン・ロゼ・ドゥ・ガンブリヌス(Cantillon Rosé de Gambrinus)というビールがあり、これはカンティヨン醸造所のフルーツビールでフランボワーズ(木イチゴ)が入っているものです。
同じカンティヨンのフルーツビールでも、クリーク(サクランボ)を漬けたものがカンティヨン・クリーク(Cantillon Kriek)というそのままの名前なのに対して、何故フランボワーズの方を敢えてガンブリヌスの名に変更したのか、その理由は分かりませんが(かつてはFramboise Cantillonと言ったそうです)、そして、ラベルに描かれているような場面はガンブリヌス伝説のどこにも出てこない、そもそもが好きな女性に振り向いてもらえないことから始まった話なのですが、いずれにせよ、このビールの名前の由来もビールの王様であることには変わりありません。
この世の春とでも言わんばかりのラベルは、生きる喜びの享受の象徴なのでしょうか?


ビアバーなどの名前としてはヨーロッパの至る所で見かけます。特に伝説の舞台となっている北フランスやフランドル地方にはたくさんありますが、ここではガンブリヌスの知名度がヨーロッパ全体に行き渡っている例として、南欧の有名なお店を二つ紹介しておきます。
まずはスペインからセルヴェセリア・ガンブリヌス(Cerveceria Gambrinus)、スペイン全土に多くの支店を持つチェーン店のビアバー・レストランです。写真はマドリッド市内ゴヤ通りにあるお店のものです。店名にあるcerveceriaというのはスペイン語でビールを表すcervezaを出すお店という意味です。

イタリアのナポリにも有名なカフェ・ガンブリヌス(Gran Caffè Gambrinus)があって、いつも多くの人で賑わっています。スペインの方は庶民派のお店でしたが、ナポリのカフェ・ガンブリヌスは由緒ある文学カフェで(その昔、文士が集まって議論を闘わせたサロンのようなもの)、第二次大戦中には反ファシズム闘士たちの集まる場所として当局に閉鎖された歴史もあります。
今でも芸術家たちが足繁く通い、歴代の大統領もナポリの地に来たときには立ち寄るほどなのです。こちらは観光スポットとしても有名です。

また、前のページに挙げたジョッキを掲げているビールの王様の画像ですが、よく見るとガンブリヌスの腰掛けているビア樽にはMusik-Automatと書かれています。Automatというのは自動人形、なんらかのからくり人形のようなもののことで、Musik Automatは大がかりな仕掛けのオルゴールを指します。樽の中にオルゴールがあるのでしょう。もしかすると、上に座っているガンブリヌスの腕や首が動くのかもしれません。
いずれにせよ、ガンブリヌスがビールと音楽に深く関わっている証で、図像によっては « Plus je bois, mieux je chante. » (飲めば飲むほど、歌も上手に)という標語を掲げていることもあります。

フィンランドの叙事詩『カレワラ』

他に神話や伝説の類でビールの起源に触れているものとしては、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』が有名でしょう。十九世紀に採集・編纂されたこのフィンランドの民族叙事詩の第20章では、イルマリネンとポホヨラの娘との婚礼準備の様子がうたわれており、そこに300行近くにも及ぶ長い長いビールの詩があります。

ポホヨラの女主ロウヒは娘の結婚の宴で大勢に食べさせるための料理をどうやって準備するか考えています。
カレリアの地にものすごく巨大な牛がいて、左右の角の間をツバメが飛ぶのに1日がかり、首から尻尾の先までリスが一月走ってもたどり着けないような、桁外れの巨牛を鉄の拳の老人の助けを得てどうにかこうにか屠って桶百杯分の肉などを手に入れます。
次にビールを用意しようと考えますが、ビールの造り方も知らなければ材料も分からないと困っていると、かまどの上に腰掛けた老人(かまどの精のような存在でしょうか?)が教えてくれます。

ビールの素は大麦・ホップ・水、そして火である。オスモの娘、ビールの醸造家とされる乙女は六つの大麦の穂先と七つのホップの先と柄杓七杯の水を鍋に入れて火にかけ沸騰させた。しかし、沸き立たせても発酵させることはできなかった。酵母としてビールを発酵させるにはなにを入れたらいいか?
そこで乙女はリスを遣いにやって樅笠と松笠を取ってこさせて、それをビールに入れてみた。しかし、ビールは発酵しない。なにを入れたらいいか?
そこで乙女は貂を遣いにやって熊の涎を取ってこさせて、それをビールに入れてみた。しかし、ビールは発酵しない。なにを入れたらいいか?
そこで乙女は蜂を遣いにやって、海の小島に眠る乙女の側らに咲く密草の花から蜂蜜を取ってこさせて、それをビールに入れてみた。すると、ビールは発酵して、大いに泡立ち樽の縁からあふれ出した。

これがビールの起源であるとかまどの老人が教えてくれたのです。これを聞いてポホヨラの女主は鍋の中に大麦とホップを入れ、泉の水が涸れるほど水を入れ、森がまばらになるほど木をくべて、カレリヤ全土が暗くなるぐらいの煙が出るまで火を熾しました。

以上が『カレワラ』に書かれているビールの起源の話で、これによるとビールの起源はかまどの老人がカレワの民に教えたということになります。
さて、悪魔やかまどの老人の話はさておき、実際にはビールの歴史はどこまで遡ることができ、最古のビールはどのようにして造られたのでしょうか。次節からは伝説ではないビールの起源を探ることとしましょう。

For further reading

Les Contes d'un Buveur de Bière (contes divers), Ch. Deulin, Kindle版

残念ながらシャルル・ドゥランの著作の邦訳はなく、それどころか、フランスでも何度か出版されているものの、現在その多くは入手困難なようです。
ただ、幸いなことにKindleやKoboなどの電子書籍版が極めて安価に手に入ります。フランス語版になりますが、ガンブリヌスの話以外にも色々と収録されていますので、興味のある方はどうぞ。

カレワラ物語―フィンランドの国民叙事詩, キルスティ・マキネン, 2005, 春風社

『カレワラ』は2巻組みの邦訳が岩波文庫から出ていますが、これも2014年現在、版元品切れのようです。
岩波文庫以外では、岩波少年文庫と春風社からも『カレワラ物語』というタイトルで出ていますが、どちらも少年少女向けのリライト版で、ビールの作り方の話は五〜十行程度で簡潔にまとめられているだけです。

References

—— Ch. Deulin, 2007, Contes d’un buveur de bière, La Découvrance éditions
—— E. リョンロット(編), 1976, 『カレワラ』, 小泉保(訳), 岩波文庫, 全2巻

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