ビールの歴史 appendix : 幻の石板モニュマン・ブルー (2)
錯綜する情報
それでは巷間に広まっているモニュマン・ブルーの話はどこから来たのでしょうか?それが全くの間違いであったとしても、誰かが意図して噓をついたのでない限りは、そのような誤解が広まってゆく過程と、それが信じるに値するだけの理由があったはずです。
ネットなどでモニュマン・ブルーのことが頻出するのは、単純に書いている内容をよく理解せずに、多くの人が次から次へと引用の引用を繰り返したしたために過ぎないと思われます。
というのも、その内容について「当時の生活様式が刻まれた粘土板」というような説明も見受けられ、ひどい場合には「ニンカシ賛歌」が描かれているというサイトさえあります。
これはつまりモニュマン・ブルーについて書いている人自身が、そこに刻まれている内容をまったく把握していないということに他なりません。そもそも粘土板では素材が違っていますし、もしかすると、その粘土板というところから生じた誤解なのか、同じ大英博物館所蔵の円筒印章でビールを飲んでいる場面が描かれているもの(所蔵品番号121545)の画像を間違えて掲載しているサイトすらあるのです。もっとも、その場合、出土品としての円筒印章とその印影をさらに取り違えていることになるのですが。
また、モニュマン・ブルーという名の「ブルー」をbrewと勘違いしたのか、「醸造の記念碑」と書かれていることもありますし、所蔵場所についても、とあるネット上のページには「ロンドンの大英博物館にある、いや、今はフランスのルーブル美術館かな」などと、まるで途中からルーブルに移されたかのような記述さえあります。これを書いた方はルーブルで実物を見たのでしょうか?
内容の真偽を確認せずにコピーに継ぐコピーでこの話が広まっていった証左として、モニュマン・ブルーが発掘されたとされている地名の問題を挙げておきましょう。多くのサイトで発掘場所がシャルモ遺跡とされていますが、そもそもシャルモ遺跡などというものは存在せず、これは恐らくジャルモ Jarmo の間違いであろうと思われます。どこかで誰かが間違えてシャルモと転写したものが広まっていったものと思われます。
モニュマン・ブルーの話を転写していった人たちは、シャルモという初めて目にした地名を書き写すに当たって、それがどこなのか調べようともしなかったのです。ちなみに、このジャルモを発掘したのはペンシルバニア大ではなくシカゴ大の発掘チームで、1940年に発見されたものなので、その点でも情報は矛盾してしまっているわけです。
では、その大本の誤った説はどこから来たのか、モニュマン・ブルーについての言説を時系列にそって遡っていけば、その出本を特定することも可能かもしれませんが、犯人捜しをしても余り意味のないことなので、このような間違いが生じた原因を探るにとどめておきましょう。
モニュマン・ブルーの伝説はどこから来たのか
まず、1935年のペンシルバニア大学による考古学調査そのものがあったかどうかですが、School of Arts and Sciencesの公式サイトによると、1931年から38年にかけてテペ・ガウラで発掘調査がおこなわれていた事実が確認でき、特に35年はその最初の成果が出版された年のようです(Peasnall et al. 2003)。
もしかすると、そのときの発掘でビールに関するものが出たのかもしれません。実際、発掘年を調べることはできませんでしたが、考古学・人類学博物館にはビールを飲んでいる様子の描かれた円筒印章が少なくとも一点所蔵されています(小林 2005)。
さて、その円筒印章か、あるいは他の発掘品がなぜ大英博物館の所蔵品と間違われたのかということですが、想像をたくましくするなら、ペンシルバニア大の所蔵品がビールに関するとても古い発掘品であるという情報と、大英博物館で実際に見たブラウ・モニュメントを、同じビールに関するメソポタミアのものとして混同してしまったのかもしれません。
実は、ビールに関する場面を描いた遺物は意外とたくさんあるのですが、それを知らなければ、「これが古代メソポタミアのビールの記録か」と思って一足飛びに結びつけてしまう可能性は否定しきれません。あくまでも、そうであったかもしれないという可能性の話ではありますが。
とはいえ、この早とちりの御仁、ブラウ・モニュメントに刻まれているビールの古拙文字は理解できたわけです。
問題はなぜそこからフランス語になってしまうのかですが、さらに想像の羽を広げてみましょう。もしかすると、上記の勘違いをしてしまったのがフランス語話者だったのでしょうか。あるいは、少なくともこの話が広まる過程のどこかでフランス語話者が介在したのでしょう。
ドイツ語のBlauはカタカナで書けばブラウですが、発音としては「アウ」と「アオ」の中間ぐらいの感じで、その一方で、フランス語のbleuもカタカナではブルーですが、その発音は「オー」と「エー」の中間、
丸い「オ」の形の唇で舌を前の方「エ」の位置にして発音します。
この二つの比較的似ている発音の語を混同してしまう人がいたのかもしれません。そして、フランス語だからといつの間にか過剰修正されて、語順まで逆になってしまったのでしょう(フランス語では通常形容詞は名詞の後ろに置きます)。
さて、モニュマン・ブルーとしてビール飲みの間で知られることになった遺物ですが、いざ大英博物館に行ってみると、そのような展示品を見つけることはできません。そもそも探そうとしている名前が間違っていますし、なにしろ古拙文字が読めないと、博物館の説明書きだけではブラウ・モニュメントにビールのことが書かれているとは分からないからです。
うろ覚えの情報で探しているわけですから、もしかしたら、大英博物館所蔵ではないのではなかろうか、そもそも名前もフランス語だし、ルーブルに美術館にあるのだろうかと勝手に想像した人がいるのかもしれません。
もう一つの可能性としては、ブラウ・モニュメントを最古のビール醸造の記録であるとする最初の勘違いに次いで、現物を見ていない人がそれはシュメルのビール醸造について書かれたニンカシ女神賛歌のことであろうと思い込んでしまったというストーリーでも説明できそうです。
というのも、ニンカシ女神賛歌はいくつかの粘土板に残されているのですが、その内のひとつがルーブルの所蔵品番号AO5385なので(Matthews et al. 2007)、ブラウ・モニュメントというのはそれのことに違いない、そして、フランスだから石板の名前も正しくはモニュマン・ブルーだろうとハイパーコレクションがかかってしまったというものです。
おそらく、AO5385は文字だけが刻まれた粘土板で普段は展示もされていないと思われるので、本物のブラウ・モニュメントの画像と見比べて間違いに気づくチャンスもなかったのではないでしょうか。
以上の経緯はあくまでも外的な状況からの類推の域を出ない、想像し得るストーリーのいくつかに過ぎませんし、モニュマン・ブルーについての言及を一つ一つ遡ってゆけば、誤った伝承の大本にたどり着くことも可能かもしれませんが、いずれにせよ、間違った情報が拡散してゆくうちに、その不整合性を修正すべく、さらに改変されてゆくという、なんだか、もっともらしい噂の広まる現場を見ているような気持にさせられる話ではあります。
References
—— キリンビール生産本部技術開発部, 2004, 『古代エジプトビール : ビールの研究』, キリンビール生産本部技術開発部
—— 小林登志子, 2005, 『シュメル―人類最古の文明 (中公新書)
』, 中央公論新社
—— V.H. Matthew and Don C. Benjamin, 2007, Old Testament Parallels: Laws and Stories from the Ancient Near East, New revised and expanded 3rd edition, Paulist Press
—— B. Peasnall and M. S. Rothman, 2003, "One of Iraq's Earliest Towns -- Excavation Tepe Gawra in the Archives of the University of Pennsylvania Museum", in Expedition, vol.45, Num.3, University of Pennsylvania Museum of Archaeology and Anthropology Museum, pp.34-39